「喪中」とは何か


 日本人は、身内や近親者が亡くなった時、「喪中ハガキ」を出し、神社への参拝を控え、新年会への参加を控えます。
 それはなぜですか?と聞けば、おおかたの人は“一般常識”だからです、と答えるでしょう。でも、
その常識がどこから来ているのか、なぜそうなのかということについては、ほとんどの人はまるで気にしません。
 今回は、僕たちの常識の奥底に、大昔からどっかりと住み着いている「喪中」をテーマに考えてみたいと思います。

 多くの人は、「喪中」とか、「忌中」とかいう言葉は、仏教と関連があると思っているのではないかと思います。しかしそうではないようです。
 「喪中」という言葉の本当の意味は、「
死者が出たことによって、死者の国=黄泉への扉が開き、ケガレが親族に乗り移ったので、それをまわりの者に移さないようにするために、一般社会との関係を絶つ」ということです。

 「悲しい気分で、喜ぶ気分になれないので、祝い事は遠慮する」というのは、後から付けられた意味です。それなら、「喪」でなく、「悲」とすればいいのです。
 「喪中」という言葉は、ケガレ、黄泉、といったキーワードを元にした、
日本土着の信仰から来ているものです。

 仏教の考え方においては、死後どうなるかと言えば、(浄土系仏教以外では)死者は7日ごとに7回の裁判を受け、
計49日が経過した時点で、生前のカルマを元に、次にどの界に転生するかが決定されるということになっています。
 この「死」→「裁判」→「転生」の流れは絶対です。

 したがって、仏教の考えにおいては、死者の魂が生前の怨念のせいでこの世に残って「幽霊」になる、なんてことは
あり得ません
 念仏を唱えて、「幽霊退散、カーーッ!」なんてやってる坊さんがいたら、それは間違いなく仏教の概念を理解していないエセ坊主です。

 死んで49日たったなら、仏教の概念では、誰もが、確実に他の界(もしくは人間界)に転生することになります。
 仏教においては、
死はけがれたものではなく、輪廻転生の流れの中で、次の生のためのはじまりにすぎないものです。

 死をケガレと考えるのは、ケガレという概念の元、死とケガレを結びつけて考える日本土着の信仰の影響によるものです。

 これまでの説明の元、なぜ「喪中ハガキ」を送るのか、ということを考えると、おおむね3つの答えが予想されます。
 すなわち、
仏教徒だから
日本神道の教徒だから
一般常識だから
 という答えです。

 一番目の仏教徒だから、という答えは、
バカバカしいほどに間違っています。「喪」はそもそも仏教の概念ではありません。
 仏教として、ケガレを移す云々と本気で言っているのなら、あきれるほどにナンセンスです。
 仏教の儀式の中で、葬式に「忌中」と書いたりするのは、日本の中で仏教が広まっていく中で、日本土着の信仰を取り込みながら広まっていった結果です。葬式で「忌中」と書くのは、本来間違いです。
 喪中が49日となっているのも、仏教が土着の信仰と入り混じってしまっている結果です。

 一方、2番目の、神道に則って喪中を行っているという答えは、一番納得できます。「喪」は、日本土着の信仰によるものであり、神道はその直系のもとにある宗教であるからです。

 3番目の、“一般常識”という答えが実は一番やっかいです。
 これは、
誰もがそうしているから、というのが理由であって、それ以外の確固たる理由などは必要ではないからです。
 また、「一般常識にそぐわなければならない」という圧力は、「バカバカしいことだから止めよう」という意見すら、常識に沿っていないという理由で、攻撃され、抹殺しようとする力へと働きます。
 その力は、批判がどんなに理にかなっているときで働きます。

 「喪中」がなぜ常識となったかということについては、もちろん正確には分かりませんが、大きくは、
それぞれの人が「そうであるべき」と内側から守ろうと考えることと、もうひとつ、外側から、「そのしきたりを守れ」と圧力をかける力が働くことによると思います。
 中でも大きな要因は、日本の行事や祭祀が、土着の信仰をベースに基礎に成り立っているということがあげられると思います。

 例えば、日本人は、多くの人が年のはじめに、神社に参拝に行きます。その時、「近親に死者を出したものは参拝を禁じる」と言われれば、そのルールに従うしかありません。
 ケガレの思想は、日本神道においては守らなければならない概念であり、喪中の参拝禁止も、宗教の枠内のことであり、参拝拒否の採択権は神社側にあるからです。

 でも、だからといって、
宗教の中のひとつの概念であるものを、一般常識として汎化させるのは間違っていると言わないまでも、問題点を含んでいます
 なぜ今回、「喪中」の是非にこだわったかと言えば、「喪」、そしてその基礎の基礎にある「ケガレ」の思想は、一般常識として考えるには、あまりに害悪の多い思想であるからです。
 念のために言っておきますが、
宗教の概念の中で考えるには、別に構わないと思います

 問題なのは、けがれた人達がいる、などというように、存在に結びつく場合です。
 
ケガレという思想が人間の存在自体と結びつくと、当然、けがれた人間が差別されるのは当然、という思想が生まれます
 事実、ケガレの思想は、人に対する差別の根本的な原因として、「穢多(えた=その名の通り、ケガレが多い人間の意)」などとして、その差別の根拠となってきました。

 最後に、僕個人の悩みを書いて締めさせていただきます。
 僕の家は、浄土真宗(あまり個人的には敬虔ではないですが)です。
 浄土真宗では、門徒は、死んで直後に浄土に行くとされます。つまり、死後の裁判も、49日もありません。
 浄土系仏教では、死は悲しいものではなく、阿弥陀の元に行ける、どちらかと言えば“めでたい”ことです。
 
悲しむ必要もなく、言うまでもなく汚らわしいものでもありません

 と、ここで“常識”とぶつかります。
 
浄土真宗の概念では、喪中ハガキなどいらず、「喪」などバカバカしい迷信以外の何ものでもないのですが、常識を信じる人たちは、「常識に従え」と圧力をかけてくるのです。

 神社への参拝は僕もしますし、「喪中」とされる時期に、神社に「うちは浄土真宗だから喪は関係ない」と参拝したら、トラブルになるのは当たり前です(もちろん、黙っていれば分からないのですが・・)。
 従って、神社に参拝の時には、神社の決めたルールに従うのが筋であると思います。

 でも、一方、“常識”という奴はやっかいです。圧力をかけてくる人間は、
「その常識にどういう意味があるのか」ということはお構いなしに言ってくるからです。逆に言えば、無知だからこそ、道理が通らないのです。

 現時点では、例え何が起ころうとも、「喪中ハガキ」は出すつもりはありません。家が浄土真宗だからというのが、一番の理由ですが、それにしてもその大本にある常識は、
バカバカしくて、間違っていて、それでいて有害な考え方を基礎にしているものです。

 ご意見のある方は、あなたのお考えを教えてください。


このHP内の文章、イラストの無断転載を禁じます。
著作権の一切は二本松昭宏に帰属します。
ライン

あなたのご感想を心からお待ちしております。

おなまえ(ハンドルでも)

メールアドレス(できれば)


性別

メッセージ・ご感想