「狂犬病注射をしない」ということの意味


 2006年11月、京都市と横浜市で狂犬病患者が発生し、男性が2名死亡しました。
 いずれも、フィリピンでの滞在中、犬に咬まれ、日本に帰国した後、発症した模様です。

 日本国内での狂犬病の発生は、実に久しぶりです。
 犬での発症は1956年が最後となっています。
 人での発症は、1970年にネパールへの旅行から帰ってきた日本人が死亡して以来です。

 狂犬病は、日本で長い間発生していなかったため、その恐ろしさは風化しつつあったのですが、今回の件で、改めてその危険性が再認識されました。
 今回は、「なぜ日本で犬に狂犬病注射をしないといけないのか」「ワクチンをうたないということは何を意味しているのか」ということを考えてみたいと思います。

1.「
狂犬病って何なの?

 狂犬病は、
狂犬病ウイルスの感染によって起こる病気です。
 日本では、その危険性が風化しつつありましたが、実際には、
現在も世界中で猛威をふるい続けている病気です。
 人畜共通伝染病としては、最も危険で、最も多数の死者を出し続けている病気です。
 世界中で毎年、実に
5万人以上が死亡しており、うち3万人超がアジアでの発生です。
 中でも、インドでは毎年約
3万人が死亡し、隣の中国でも毎年2000〜3000人が亡くなっています。
 北京オリンピックを前に、中国政府が躍起になって狂犬病の撲滅対策を行っているのは記憶に新しいところです。

 世界でも、狂犬病の発生していない国・地域は、
台湾、アイスランド、アイルランド、スウェーデン、ノルウェー、イギリス、オーストラリア、 ニュージーランド、フィジー諸島、ハワイ、グアムなどに限られます。
 ほとんどは
島国で、動物の移動を管理・制限することができる地域です。

 ウイルスに感染しうる動物は、
全ての哺乳類、および一部の鳥類であり、発症した動物に咬まれることによって、ウイルスは人間へと伝搬します。
 人では、潜伏期間は9日〜数年であり、通常は
20〜60日程度です。
 咬まれた後の発病率は
32〜64%であり、発病するかどうかは咬傷の程度や体内に入ったウイルス量などに左右されます。
 また、犬は、狂犬病に感染すると
1〜2週間の短期間で発病します。
 発症した動物は
興奮〜麻痺症状の神経症状を起こし、やがて呼吸困難に陥り、死亡します。

 神経症状の時、興奮状態になるか、それとも麻痺症状となるかは種により異なります。
 犬では興奮症状が強く出るため、咬傷によりウイルスを伝染する源になりやすいですが、牛などでは麻痺症状の方が強いため、重篤な感染源にはなりません。

 発症した場合、
死亡率はほぼ100%です。
 犬に噛まれた後、ワクチンを複数回うてば、予防できる可能性はありますが、一旦発症してしまったら、治療法は存在せず、発症したら死を待つしかありません(発症後助かった例として報告されているのは、これまでにわずか6例だけです)。

 狂犬病ウイルスは、
一旦国内に入りこむと根絶が大変であり
(日本でも
1732年から1956年までの224年間に渡り苦しめられました)、ウイルスの国内への移入をいかに食い止めるか、ということがとても大切です。

2.「
日本では狂犬病注射が流行していないのに、なぜ予防注射をしないといけないのか

 狂犬病の予防には、
1.
病原体の侵入阻止検疫
2.
病原体に対しての免疫力向上予防接種
 というふたつの手段があります。

 日本では、上記のふたつの方法をどちらも取っています。
 一方、イギリスでは
予防注射は任意であり、オーストラリアなどでは狂犬病注射は禁止となっています。

 なぜ狂犬病注射が義務でないかと言えば、
侵入阻止という水際作戦の方を中心にしているからです。
 もともとは、イギリスにも狂犬病は発生していました。
 しかし、日本同様、予防接種に力を入れることにより、なんとか根絶するに至りました。
 イギリスで、その後予防注射を止めることができているのは、「
検疫」がしっかり行われ、「発生したときの対処」も確立しているからです。
 発生したときの対処とは、「
万が一狂犬病が発生したときは、発症犬と、発症の疑わしい犬を、直ちに捕獲、隔離し、処分する」ということです。
 その背景には、動物飼育に対しての、飼い主と社会全体の高い意識とモラルというものがあります。

 ただ、検疫をしっかりしておけば、ウイルスの侵入を100%防げるかというと、100%とは言えません。
 実際、イギリスでも、狂犬病ウイルスに近い種類の
リッサウイルスが侵入し、死亡者が出ています。

 日本では、「しっかりした検疫」も、実のところできていません。
 
犬以外の動物では検疫の緩い部分もあり、また、犬においても、正規のルート以外で国内に入ってくる犬がいるからです。

 なかでも有名なのが、
ロシアからの漁船です。
 これらの船には、“船の守り神”として犬が乗っていて、夜、港で自由に放して遊ばせていたり、逃げ出して日本国内に入り込んでしまったりしている、ということが多数報告されています。
 
水際での病原体侵入阻止は、完全にはできておらず、実際には、いつ日本国内で狂犬病が発生してもおかしくない状況であるといわれています。

 また、国内には、
登録すらされていない犬がたくさんいて、おせじにも日本における飼い主の犬に対してのモラルは高いとは言えません
 そんな状況では、
狂犬病が発生したときに、その地域の犬を完全に把握・管理できるかと言えば、今の時点ではできないであろうと言われています。

 また、オーストラリアなどで、狂犬病の予防接種が“禁止”されていることを、“動物愛護”が目的だと勘違いしている人もいるようですが、それは違います。
 それは、日本で鳥インフルエンザの時に、なぜ鶏に対してワクチンをうたなかったかと同じ理由だそうです。
 つまり、「
中途半端に抵抗力を持っていると、病原体が侵入したときに、その侵入を見過ごしてしまう危険性がある」という理由です。

 そのため、
あえて個体それぞれを抵抗力を低い状態にしておき、万が一病原体が侵入してきて、症状が出た個体がいたら、速やかにその犬とその地域の犬を、まとめて速やかに隔離し、必要に応じて殺処分する、という考え方です。

3.「
アメリカでは3年に一度の注射なのに、なぜ日本では毎年注射なのか

 その問いへの答えは2つあります。
 一番の直接の答えは、
アメリカのワクチンは3年に一度の接種で認可を取っており、日本のワクチンは1年に一度の接種で認可を取っているから、というものです。

 なぜ1年に一度のタイプしか日本では認可されていないのか、と聞かれても、一般の臨床医にとっては何とも言えないところです。
 少なくとも、
能書に1年に一度の接種、と書いてあったとしたら、個々の獣医師はその用法を守らなくてはいけません
 能書に「3年に一度」と書かれていたら、もちろんそれを守って3年に一度接種することになりますが、能書に「1年に一度」書いてある以上、そうする以外にはありません。

 もうひとつの大きな理由は、
日本に狂犬病が発生したとしたら、間違いなく犬が最も感染経路の“鍵”となる動物になるが、アメリカでは、“鍵”となる動物は、犬ではない、ということです。

 狂犬病の発生のタイプには2つあります。
 ひとつはインドや中国などの「都市型」、もうひとつはヨーロッパやアメリカなどの「森林型」です。

 
都市型とは、人口過密な地域の中に、ウイルスを保有した犬が徘徊していて、頻繁に人間への咬傷を引き起こして、人へウイルスを伝搬させている状態です。
 なぜインド(死亡数約3万人)や中国(2〜3千人)が、大きな死傷者数を出しているかといえば、人間社会の中で、
自由に犬が徘徊し、ウイルスの媒介に大きな役割を果たしているからです。

 狂犬病ウイルスに感染した犬は、凶暴になり、目に付く動物に襲いかかります。
 
人間の身近にいるということと、攻撃能力の高さから、狂犬病ウイルスの人間への伝搬において、最も危険性を持つ動物が、「犬」です。

 都市型狂犬病の撲滅のためには、
野良犬の徘徊を無くし、飼育されている犬にワクチンの接種をすることが急務です。
 アジアでは、実に狂犬病感染の
約8割が犬からのものであると報告されています。

 それに対して、
森林型とは、人間社会の中からはほぼウイルスが駆逐されているけれど、野生動物の中にウイルスが広まってしまっているため、野生動物による咬傷によって人が発症するものです。

 人間社会の中には爆発的な流行は見られないため、
発症例は多くはありませんが、野生動物は至る所にいるため、散発的に発生が見られます。
 しばしば発生源となる動物として、
コウモリやスカンク、アライグマ、キツネなどが知られています。

 理想を言えば、野生動物全てにワクチンを投与して、全ての動物の免疫力を高められればそれに勝るものはありませんが、実際にはそんなことは不可能です。
 したがって、野生動物に対しては、予防接種よりも、
咬まれないよう気をつけること、および咬まれた後の処置、が大切になります。

 どの動物がウイルスを持っているかは外見からは判断できないため、野生動物に咬まれてしまったときは、
相手が“ウイルスを保有しているもの”と見なして、すみやかに咬まれた患者を治療していく、ということになります。
 実際、旅行に行ってリスに咬まれたら、ガイドが血相を変えて大ごとになり、病院に何週間か強制入院になってしまった、という日本人もいるそうです。

 森林型の発生は、野生動物からの伝搬が中心で、発生は散発的であり、
犬は重要な感染元ではありません
 ただし、ウイルスが犬に感染したときは、その高い攻撃能力によって、社会の中での感染源となる可能性がありますので、爆発的な流行の予防のために、犬にワクチンの接種をしておく、ということになります。

 日本では、幸い、現在の所、野生動物に感染が蔓延している状態ではありません。
 日本にとって、狂犬病の伝搬で一番恐ろしいのは、犬です。
 1732年に、日本に最初にウイルスが持ち込まれたのも、
海外からの船によって、長崎にやってきた犬を通じてでした。
 そして、江戸時代〜昭和時代を通じて、一番社会を恐怖に陥らせたのも、
犬による咬傷です。

 日本に再びウイルスが入り込み、万一、犬から人への伝搬が起これば、社会は間違いなく大パニックになります。
 
日本のような人口過密地帯では、最も恐ろしいのは都市型の流行であり、犬はそこにおける感染の“鍵”です。
 だからこそ、狂犬病という恐ろしい疾病から人間を守るため、犬にワクチンを接種しておき、ウイルスが万一国内に入り込んできたとしても、爆発的流行とならないようにしようという方針になっているのです。

 狂犬病の予防接種をするのは、犬のためではなく、
人間のためです。
 そして、狂犬病にどう対処するかは、国にとっての
リスク管理の問題です。
 
リスク管理の問題と動物愛護は、まるきり次元の違う問題です。
 狂犬病は、致死率ほぼ100%の、昔も今も、世界で最も恐ろしい感染症です。
 その病気に対して、どう対処していくべきかは、国の置かれた状況を見極めながら、慎重に対処していくべきです。
 いったん国内で狂犬病が発症したとしたら、間違いなく、
SARDSや鳥インフルエンザどころではない大パニックが引き起こされます
 違う事情の、他の国のやり方を述べて、日本もこうすべきだ、と言っても、それが適切であるとは限りません。

 リスク管理の問題は、常に
トップダウンで行われるべきです。
 「国民」を疾病から守るためには、
しっかりした分析の元、明確な方針を持って、厳格に対処していかなければいけないということです。
 “嫌だから”“お金が惜しいから”などといった理由で、
個々の人間が勝手な行動をすることは許されません

 狂犬病注射は、現在、法律で定められた、飼い主の義務となっています。
 なぜ義務となっているかといえば、国民を恐ろしい感染症から守るためには、犬に予防接種をして集団免疫力を上げておくことが、現在の状況では最善と思われるから、です。

 WHOの勧告では、
社会の犬の70%以上に予防接種がなされていないと、ウイルスが入り込んだときに流行を抑えることができない、とされています。
 日本の推定摂取率は、
約4割を切っているとも言われています。
 狂犬病がいつ国内で発生してもおかしくないと言われている現在、万一狂犬病が犬で発生したとしたら、はたして流行を抑えることができるのかどうか、分かりません。

 「狂犬病注射をしない」ということの意味は、「
国の疾病リスクを上昇させ、国民全体を危険にさらす」ということです。
 「私ひとりくらいうたなくても、どうってことはないだろう」と思う人が増えることによって、知らず知らずのうちに、社会全体の疾病リスクは高くなっていきます。
 狂犬病注射を打つことが義務となっている現状では、
予防接種を受けずに犬を飼育することは許されません
 あえてきつい言い方をすれば、「
飼い主としての義務を守ることのできない人は、犬を飼ってはいけない」のです。

 犬は、人間にとって、大昔から、ともに喜びを分かち合える
最良の友であり続けてきました。
 しかし、その一方で、ともすれば、
人類にとって最も恐ろしい感染症をもたらす、危険な相手にもなりうるということを、けして忘れてはいけないと思います。


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