コンパニオンアニマルにおける生きる権利
「生命の価値」の項
でも述べたとおり、生命の価値は多面的であり絶対的な物ではありません。しかし、「人間社会の中で」という限定がつくと話はがらっと変わってきます。社会はよりみんなが幸せになれるように、またスムーズに生活を送れるように発展してきました。そのために人権というものが創造されました。これにより、人間は生命と財産を脅かされる心配が無くなり、自身の能力を社会をより発展させることに使うことができるようになりました(生きるか死ぬかの中ではそれどころではありません)。
それまでは下層の人は社会から搾取され奪われてもそれは当然のことであり、社会に対して何かを与えてもその対価は払われないのが当然でした。
時代は変わり、社会が発展すると「
社会に対して貢献した物にはそれだけの報酬がもらえる
」という約束事ができました。
社会は一人では構成されません。ものを作る人がいて、守る人がいて、なおす人がいて、・・・といろんな人が協力しながら社会を作っています。社会に対して貢献をした人はそれが報われる社会でなければなりません。
ではコンパニオンアニマルはどうかというと、人間社会の中で人間の心を癒し、活力を与え、時には直接仕事をしたりして社会を構成する力となっています。
自ら好きこのんで人間に飼ってもらったかは別として、
社会への貢献
ということを果たしています。人間はそのことに対して、それだけの対価を払わなければなりません。それは人間としての責任です。
結論としては人間社会の中で暮らすコンパニオンアニマルにおいては生きる権利(生命と財産(って何でしょう?)を保証される権利)があります。
野生動物における生きる権利
一方で、ならば全ての動物に生きる権利があるかというと、それは無いと考えます。だから別に人間がどうしてもいいというのではなく、
「生きる権利」自体が人間社会の中限定の物
だからです。
彼らは人間社会とは別の次元で生きています。正確に言うと自然の中で人間が群れを作り勝手に価値観を作り出したにすぎないのですが、野生動物は人間社会の外で生きている存在です。
そこに人間の価値観を当てはめることはできません。
全ての動物に人間が作り出した価値観を適用しようとするのは純粋なエゴ
です。自然に生まれ、自然に死んでいく動物がいるとき、本来人間がそこに手を加えるべきではありません。自然の摂理の元でバランスが成り立っているとき、善意でも悪意でも人間が関与するとバランスを崩すことになります。
しかし、現実には人間が手を加えていない純粋な自然という物自体がありません。身の回りの山も川も海も、人間が「すごしやすい社会を作るために」との名目で環境を変えています。
(環境破壊を糾弾するつもりはありません。人間社会が発展していくことが人間にとっての命題である以上必ずぶつかる問題です。そのことに対してここで善悪を判断することはしません。)
その過程で住みかやエサ場を壊されたために、本来の住みかを奪われたり、また釣り針や糸などでけがをしたりした動物に対しては人間は罪滅ぼしをしないといけないと思います。
本来の自然で住んでいる限りは受けるはずのない不利益を被っているのであり、彼らは人間による被害者
だからです。
(生物が生きる限り、他の生物を犠牲にしないといけないのはどの生物も同じです。ただし、人間は全ての生物が暮らしている「自然(その生物にとっての世界)」に手を加えてしまいます。)
「人間の社会が発展するために貢献したのだから、保護を受けるのは当然の権利だ」と考えることもできますが、僕には結論が分かりません。幸い人間には罪悪感、倫理観というものも持っていますので、それに期待しながら折り合いをつけていくしかないのでしょうか。
人間は多面的な生物です。過去何度もの戦争が示すとおり、時に単一の価値観で突っ走り、視野の狭い”狂気”に支配された状態となることがあります。つい最近では金という価値観に誰もが突っ走ったバブルの時代がありました。
狂気に支配された状態では一つの価値観以外の物は何が犠牲になったとしても見過ごされます。社会はそれを無価値であると判断するからです。
自然をも大きく左右する力を持ってしまった時代においては、それは人間社会の破綻を意味します。
社会が一人では成り立たないのと同じように、人間社会は自然無くしてはあり得ません。人間社会は自然の中でどうあるべきか、どう自然と共存していくかを広い視野から模索していきたいものです。
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