なぜ自然を守るのか


 「自然を守りましょう」という意見は、大きくふたつの主張に分けることができます。
 ひとつ目は「
自然環境を大きく壊さないように注意しながら、持続可能な利益を得るようにしましょう」という自然保護の主張です。
 もうひとつは、「
自然はそれだけで神聖で汚してはならないものだから、手をつけずにそのままにしておきましょう」という自然保全の主張です。

 どちらも自然を守るという言葉においては共通していますが、その目指すものと基本思想は大きく異なっています。
 その主張の違いを生んでいるのは、
自然に対する認識です。
 すなわち、
自然に対してどういう価値づけをするかによって違いが生まれます。

 両者を詳しく考える前に、人間のつける“
価値”というものをもう一度振り返ってみます。
 人間は、知性を持ち、その
知性によってものごとに価値づけをする動物ですが、人間がものごとにどういう価値づけをするかについては、「人間にとっての有用性」で考えるか、「絶対的な価値」で考えるかの2種類があります。
 すなわち、価値基準を自分に定めるか、それとも“絶対的な真理”のようなものにおくかです。

 前者においては、
人間に役に立つものは有用であり、価値の高いものとなります。その逆は価値のないものと見なされます。
 人間が全ての価値を決める基準となることをはっきり自覚しています。矛盾や欺瞞はありませんが、
自己中心的にならざるを得ません。

 後者の場合にまず前提となるのは、「
この世には価値の高いものと価値の低いものがあり、存在するものはその内のどれかに当てはまる」というものです。
 “客観的な”価値を考えようとしていますが、価値づけをするのが人間である以上、主観的なもの以外ではあり得ません。
 価値づけの基準は、
人間がそのものごとをどう感じるかです
 人間にとって大切に感じられた場合には、人間はそのものごとを価値あるものだと主張します。価値無いと感じた場合には、価値無いものだと主張されます。

 ここまで言うと後は言わずもがなですが、
自然保護派は自然を見るときに、自然を「人間にとっての有用性」で価値づけをしており、自然保全派は、自然を「絶対的な価値」の視点で見ているのです。

 自然保護論に関して疑問に思うのは、
人間に自然を自由に扱う権利などはあるのかということです。自然保護の話し合いでも、人は当たり前のように「自然資源は人類共通の財産」などと言います。
 それが間違いであるとは言い切れませんが、
人が世界をどう扱おうが人にはその資格があると思っているのなら、それは傲慢すぎると思います。
 人には世界を好きにする資格など誰からも与えられていませんし、そんな権利は人間にはありません。

 しかし、人間にとっての有用性で物事を判断するのは、当然といえば当然であるとも思います。人間は知性を生存の武器とする動物です。
 知性を持つということは、
生活環境の中で自分達の役に立つものとそうでないものを判断し、効率的な生存方法を自ら模索していけるということです。
 ものごとに価値づけをするということは、
自分達の生存に役立つものと役立たないものを知性によって判断することの有用な手段であるからです。

 人が生きようとする意志を持つのは当然であり、ものごとに価値づけをするということも、種として生まれ持った宿命であると思います。
 ものごとに価値づけをし、それを自分達の生存のために用いようとすること自体は善でも悪でもないと思います。

 一方、自然保全論に関して思うのは、自然はそれ自体価値の高いものであると言うが、どうして人間に“絶対的価値”の有無などを語ることができるのだということです。
 「大切にしたいと思う」と言うことはできたとしても、「大切にしなければならない存在である」と言うことはできません。
その存在自体の価値づけは人間にできることではありません。人間の価値観によらずに、ものごとに価値づけすることはできません。
 人間に“絶対的”価値を語ることができると思うのは、
傲慢さの表れであり、自分達の知性に対する過信だと思います。

 自然保全論の裏側にあるのは、「
自分達がかけがいないものであると感じ、愛しく思うこの自然を大切にしたい」という願望です。
 そうであるなら、「大切にしたいと思っている」ことを「大切にしないといけない」ことにすり替えるのではなく、「大切にしたいから大切にしましょう」とストレートに言った方が、言葉に誤りが含まれずにすみます。

 保護論にしろ、保全論にしろ、ものごとに価値づけをし、その価値の高さを根拠に「守らなければならない」と主張しています。
 その根拠を自分達の有用性におくか、“絶対的価値”におくかが違うだけで、
ものごとに価値づけをできると考える点においては、根っこは同じです。
 僕が模索しているのは、ものごとに価値づけをしなくてもすむ考え方です。「
語り得ないものを語ってはいけない」のであり、自分達が語ることのできる範囲内でものごとを語るべきです。
 価値づけできるはずのないものに価値づけをして、その価値を根拠に判断・行動したとしても、スタート地点がまず間違っています。

 自然を大切にするのは、何より
自分達の生活基盤が壊れないようにするためです。生活基盤が壊れると自分達が存続できなるので、それを防ぐために自然を守らなければならないのです。
 人間にとっては、人間が安定した存続をしていくことを望むのは当たり前のことです。

 そして
自分達の子孫により良い生活環境を残し、自然をその「有用性」や「美しさ」を損なわずにこども達に手渡したいと願うからこそ、大切にしたいと考えるのです。
 僕達が自然から得ている利益も、安らぎもこども達にも同じように味わってもらいたいと願う素朴な気持ちでいいと思います。
 「何のために自然を守るのか?」という問いには、「
こども達のために」というひと言で答えられると思います。

 また、自分達の、他者を思いやる気持ちを大切にすることは自分達の人間性を大切にすることそのものです。
 人間は
自分達の利益のために他の存在に迷惑をかけることをよしとしない人間性”を持っています。その人間性を大切にするために、すなわち自分達自身の生き様のためにも、他の存在を尊重しなければならないと思います。
 生きる上で良心の呵責を感じないようにするためにと言い換えてもいいかと思います。

 自分さえよければいいという考え方は、人間性ある考えとは思えません。他者とのつながりを意識した上で、その存在に感謝しつつ、大切に扱わなければならないと思います。

 
ものごとに価値づけをしなければ、その存在を大切にできないというのは人間の持つ価値観が未熟だからと思います。
 大切にしないといけないと言われないと大切にしないというのは、「人間性を大切にできる成熟した人間」という視点から見ると、まだまだ未熟な、情けない状態だと思います。
 「大切にしたければならないから大切にする」のではなく、「
大切にしたいと願い、大切にする」という、願望としての自然保護/保全であるのがベストだと思います。

 
ものごとに価値づけをすることなく、大切に感じ、大切にしたいと願望を持ち、その願望を持つがゆえに大切にする、というのが、ヒューマニズムの次に来る、人間の倫理観であると思います。


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